ボール投げてや!
正面が琵琶湖の突き当り
やなの保護区域
河口で泳ぐルー

知内川の河口です。
ここは砂が流れ込み遠浅になっています。
400万年の歴史を持つ琵琶湖が長い年月をかけて動くというのは、わかるような気がします。
人間の一生はこれに比べれば点のようです。私がここらを歩き始めてからまだ10年。
それでも、波で毎年削り取られている浜があります。県は人口の土止めを繰り返していますが、確実に波は湖岸を削っています。
初めは、座ってよく休憩したコンクリート製のベンチはすでに足元が削られています。大きな段差が出来ています。
直接、琵琶湖にボートを出すように作られていた別荘は大きなえぐれのため、ボートは出せなくなっています。
それごころか、今後年月が経つと土地そのものが浸食されるのでは、、、。
迫力ある琵琶湖のヘラブナ

大荒れの湖岸にフナが打ち上げられていました。
全長は45cm以上あると思われます。体高が18cmぐらいありました。
さすがに琵琶湖です。スケールが違います。
フナには多くの種や亜種があって分類が難しいらしいです。
ただしそのなかにあって、琵琶湖と淀川水系に棲むゲンゴロウブナには独立した学名が付けられています。形態的にも独特の特徴を持っているからだそうです。
ヘラブナはこのゲンゴロウブナの飼育繁殖したものです。先日来アップしている養魚池で飼育されているものです。
ヘラブナは全国に広がり、多くのヘラ釣りの愛好者がいます。
ウキの微妙なあたりで、これぐらいのヘラが釣れたら!!と夢に見そうです。
今日の湖岸にはコイも打ち上げられていました。今年はまた「コイヘルペス」がはやるかもしれないと、滋賀県の水産課から連絡が書面でありました。コイの琵琶湖への持ち込みや持ち出しは禁止するとのことです。
何年か前に「コイヘルペス」が流行し、湖岸にもたくさんの鯉が上がりましたが、ボートで出ると水深2mぐらいのところは大きなコイの死体で一杯だったことを思い出します。
このフナもコイもこのあとすぐにカラスやトンビやサギが来て食べてしまいます。頭と骨だけになります。
打ち上げられて時間が経っていなかったのでしょう。
流れ込みの奥まで波が!
久々の琵琶湖
近くの養魚池
魚が確実に産卵する素材

先日アップした養魚池の産卵用の仕掛けにつけてある素材です。
これが水の中に浸かっています。
このモジャモジャのところに魚は卵を産み付けます。いわゆる、「乗っ込み」する場になります。
一般的に、魚は浅場で産卵します。川に遡上したサケなどの産卵も浅場です。ウナギは反対で、たいへん深いところで産卵するみたいです。最近、ウナギの産卵場がわかったとの報道がありました。
池の水を抜いて、浅場を作り、そこにこれをセットして産卵させ効率よく稚魚を取っています。
このモジャモジャが何なのかが、随分長い間わかりませんでした。
すでに用が済んで、干されていました。
たいへん変わった素材が使われています。昔からこれが一番いいのでしょう。
プラスチックではうまく行かないところがあるのでしょう。いまだにこんなものを使っているのは、おもしろいと感じます。
かわいい花
得意の泳ぎ
家の中にいたヘビ

湖舟林にいました。
工作室兼ルーの休憩所兼物置にしている高基礎の部分は入り口のドアを開けっ放しにしています。
そのために、家の中に入り込んでいました。庭では、マムシもシマヘビもアオダイショウも見ています。
マムシは地元の人に言わせると、行動のテリトリーが他のヘビにくらべて狭いので見つけ次第処分した方がよいとのことです。何度も出くわすことになるらしいです。
物陰に入り込むと捕まえにくくなるので、かわいそうですが、今回は叩き殺しました。
最初に見た時は、暗いこともありマムシのように見えたので少しあわてました。
大きさは、大人の一歩手前のサイズと思います。
私はよくヘビに出会うので、ほとんどの日本のヘビはわかりますが、こんな柄のヘビは初めてです。
ヤマカカシはもっとオレンジかかっています。マムシの柄ではありません。
アオダイショウやシマヘビでもありません。結局、何かわかりませんでした。がヤマカカシが一番近いかなあ?と思っています。柄はハブに似ています。
ヤマカカシは毒ヘビです。ハブの10倍の毒と言われています。
見つけてよかったです。知らないで、物を取ろうとして、ガブリとやられたらたいへんです。びっくりしてどうしてよいのか、きっと慌てることでしょうね。
旧河澄家

東大阪市の日下町にある「旧河澄家」です。
日下の字をなぜ「くさか」と読むのかはよくわかっていないみたいです。
この地区に孔舎衙小学校と書いて、「くさかしょうがっこう」と読む学校があります。難しいので、後に町名を簡単な「日下」にしたのかと自分流に解釈していましたが、古事記の序文にすでに「日下」と明記されていると知りました。日下も古い町名のようです。
東大阪市指定文化財になっています。見学は無料です。
近鉄奈良線の石切駅北口より約1.3kmです。
生駒山の麓で道は細く、坂道です。
なぜ、ここを見に行ったのかは、以前見に行った旧白洲邸の「武相荘」と比べてみるとおもしろいかなと思ったからです。
「武相荘」は東京都町田市能ヶ谷町にあります。小田急の小田原線、鶴川駅から徒歩15分のところです。会社を休んで、一人で往復しました。
この時は、白洲次郎と正子氏がどんなところで暮らしていたのか、また我が湖舟林の参考になることはないか、情報を集めに行きました。
「武相荘」は後ほどアップしようと考えています。
奥座敷の棲鶴楼
かやの木
白寿の祝い
教育塔
下のレリーフ
追手門学院大手前

堀のすぐ横に、追手門学院があります。
この学院の歴史は古いです。もともと小学校がベースです。
私の親はよく「かいこうしゃ」と言っていました。
どんな字を書くのか知りませんでしたが、「かいこうしゃ」と言っていたので調べてみました。
その母体は、大阪偕行社附属小学校でした。1888年(明治21年)に設立されています。
旧日本陸軍将校により作られた、財団偕行社の附属として主に軍部将校子弟の教育を目的とした男子校でした。軍人さんの子の学校や!と聞いていました。戦後は共学校として再スタートしたとのことです。
この大阪偕行社附属小学校は、薩摩藩士で大日本帝国陸軍中将であった、高島鞆之助(とものすけ)が作っています。やはり軍人が軍人のために作った学校でした。
もともと日本の帝国陸軍は大阪城を中心に大阪で作られています。ここ大阪城が陸軍の拠点でした。ここを中心に、全国に師団を展開していったみたいです。
東洋一と言われた砲兵工廠が大阪城の東にありました。私の小学校の頃の遊び場でした。
陸軍で第一に出てくる名前は、大村益次郎でしょう。だから、ここに軍人のための学校があるのは自然なことです。人を組織して軍隊を作り、工場を動かして兵器を作り、軍幹部の後継者を育成する学校を作る、これらの一貫した場をここ大阪城にしていました。
おもしろいことに、高島中将が住んでいた当時の自宅は上智大学四谷キャンパスのクルトゥルハイム聖堂として現存しているらしいです。
さて、そんなことで追手門学院は小学校が出来てから、50年ほどしてからの1940年に大阪偕行社附属中学校が創立しています。今は、大学までありますが、世によくある○○○○大学附属小学校ではありません。創立の趣旨と伝統から言うならば、追手門学院小学校附属大学・附属高校・附属中学ということになります。



























